大阪地方裁判所 昭和52年(ワ)6626号 判決 1980年12月20日
原告
杉本久美子
右法定代理人親権者父
杉本陸実
同母
杉本和子
右訴訟代理人
滝井繁男
外一〇名
被告
医療法人景岳会
右代表者理事
内藤景岳
右訴訟代理人
藤原光一
同
西川元庸
被告
大阪市
右代表者市長
大島靖
右訴訟代理人
色川幸太郎
外四名
主文
被告らは原告に対し、連帯して金二、七五〇万円および内金二、五〇〇万円に対する昭和五一年四月二三日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求はいずれも棄却する。
訴訟費用は二分し、その一を原告の負担、その余を被告らの負担とする。
この判決は、原告勝訴部分に限り、仮に執行することができる。ただし、被告らにおいて共同して原告に対し、金一、三七五万円の担保を供するときは、右仮執行を免れることができる。
事実
第一 請求の趣旨
被告らは各自原告に対し、金五、七〇〇万円および内金五、〇〇〇万円に対する昭和五一年四月二三日より支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は被告らの負担とする。
との判決ならびに仮執行の宣言を求める。
第二 請求の趣旨に対する被告らの答弁
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
との判決を求める。<以下、事実省略>
理由
一原告の出生とその後失明に至るまでの臨床経過
<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。
(一) 原告の出生
原告は、杉本陸実(昭和一六年三月三〇日生)を父、杉本和子(同二二年二月二一日生)を母として、昭和五一年二月八日午前八時、被告景岳会の経営にかかる大阪市住之江区東加賀屋一丁目一八番一八号総合病院南大阪病院産婦人科において、一卵性双生児の第二子(三女)として出生した。杉本和子は経産婦で、最初の出産も、予定日が昭和四八年四月二六日のところ五五日早く同年三月一日に生下時体重一、九五〇グラムの未熟児(低出生体重児)を分娩したことがあつた(原告が昭和五一年二月八日午前八時、被告景岳会経営にかかる南大阪病院産婦人科において一卵性双生児の第二子として出生した事実は、被告景岳会との間では、争いがない)。
(二) 出生時の模様
原告の分娩予定日は、昭和五一年三月二〇日であつたが、約四一日早く在胎週数三四週、(前掲乙第五号証の六には在胎三〇週終りとあるが計数上誤記と認む)生下時体重一、二〇〇グラム、アプガールスコア八点、足位出生のいわゆる極小未熟児であつた。第一子杉本恵美子(二女)は、同年二月八日午前七時五五分後頭位で出生し、生下時体重一、四〇〇グラム、アプガールスコア八点の未熟児であつた。(原告が、足位出産、生下時体重一、二〇〇グラム、アプガールスコア八点であつたことは、被告景岳会との間では争いがない、なお、原告は、原告の両親が双生児であることを知らされていなかつたとか、出産の際立会つた医師が「あつ二人目だ」といつたことから、南大阪病院では双生児であることを事前に把握していなかつたかのように主張し、原告法定代理人杉本和子尋問の結果中には同旨供述部分が存するけれども、<証拠>によれば、南大阪病院では、出生前の診察で、双生児であることを知つていたと認めるに難くないので、前示供述は採用できない。)
(三) 出生後の酸素投与、原告の主治医並びに南大阪病院小児科の医療体制について
原告は、出生後直ちに保育器に収容され、同日午前九時三〇分同病院未熟児室に入院し、まもなく小児科に転科し、全身のチアノーゼ、多呼吸、呻吟、呼吸困難等の症状が認められたので保育器に収容され酸素投与を行つた。
原告の保育器収容期間は、出生日から同年四月一二日(六五日目)までであり、酸素投与量およびその濃度は、おおむね被告景岳会主張のとおりであつて、主治医である平野明子(昭和二四年八月七日生、当時中島明子という、同四九年三月京都府立医科大学卒業、同年五月医師国家試験合格、その頃から南大阪病院小児科に勤務、同五〇年六、七月頃から未熟児保育を担当、同五一年四月同病院を退職、現在岡山済生会病院小児科勤務)が、南大阪病院備付の酸素濃度計、酸素流量計並びに加湿器等を使用して、酸素濃度を測定し、酸素流量を調節する一方、湿度の加減をなし、酸素濃度は四〇パーセントを超えないよう留意し、看護婦には体温測定させ、体温表を記録させた。なお同病院小児科の所属医師は四名、未熟児担当医は平野医師を含め二名であつた。
(四) 出生日から昭和五一年三月九日までの原告の全身状態および症状
原告は昭和五一年二月八日午後一時頃には、まだ手掌、足蹠にチアノーゼがあり、多呼吸が認められた。
同月九日午前九時頃にも、依然チアノーゼと多呼吸があり、軽い黄疸と不規則呼吸が認められたが、胸部心雑音、ラッセル音はなく胸部レントゲン写真にも特記すべき異常はなかつた。しかし同日午前一一時三〇分にもまだチアノーゼ、多呼吸が認められた。
同月一〇日から翌月九日(三一日目)までの原告の全身状態の経過、症状、治療の模様は、おおむね被告景岳会主張のとおりである。
(五) 原告の第一回眼底検査並びに南大阪病院眼科の医療体制について
昭和五一年三月一〇日(三二日目)、南大阪病院小児科平野医師は、同病院備付の診療依頼票に、原告が在胎週数三四週、生下時体重一、二〇〇グラム、双胎の第二子、未熟児で、生後二週間目位まで三回の無呼吸発作があり、酸素療法を行つている旨記載して、所定の方式により同病院眼科に診療(第一回眼底検査)を求めたところ、同日の担当医である木村嗣医師(昭和五〇年三月大阪医科大学卒業、同年五月医師国家試験合格、同年六月から同五二年五月まで大阪医科大学眼科教室および付属病院において、研修医として勤務するとともに、同五〇年一〇月から同五二年一月まで南大阪病院眼科に週一回水曜日に嘱託医として勤務、ただし月一回は、右大学眼科教室の先輩である古田効男医師が同病院眼科に勤務していた)は、原告の収容されている未熟児室で、原告を保育器から出して眼底検査を行つた結果、視神経乳頭の境界は鮮明で色調も正常、網膜は透明でよく透見できる、網膜血管は両側蛇行しており、左眼に極めて小さい、出血か?とカルテに記載した。
南大阪病院では、未熟児の眼底検査は、原則として生後三週間目位から始めるのを常態としていたから、原告の場合は、一一日遅れていた。木村医師は、原告の生下時体重等から推量して未熟児網膜症発症の頻度が高いことを予想して検査を施行し、その結果オーエンス一期の症状の疑いがあると考えたが、本症は自然治癒率が高いので経過観察で足ると判断した。(同年三月一〇日木村医師により原告の第一回眼底検査が実施されたことは、被告景岳会との間では争いがない。)
(六) 第二回眼底検査および木村医師の本症に関する診療経験の程度について
原告の主治医平野医師は、昭和五一年三月一七日再度診療依頼票により原告の眼底、検査を求め、同日の担当医木村は、再度原告の眼底検査をした結果、網膜血管は、非常に強く蛇行し拡張している、色調は殆んど正常である、視神経乳頭は、境界鮮明で正常の色調であるとカルテに記載した。しかし、当日原告の両眼は、反射の強いオレンジ色を呈し、赤味を帯び、一部は透見できたが、ほかはヘイジイメディアのため透見できない状態であり、血管の怒張と蛇行が強くなり、左眼には大きな出血があつたのでおかしいと感じ、カルテには「次回来週」と記載したうえ、その頃先輩の指導医である古田に対し、次回三月二四日の原告の診療を依頼した。
なお、木村医師は、当時、前記のとおり研修医であり、昭和四九年度厚生省研究班の本件研究報告や本症に関する著名な研究者である植村恭夫、永田誠らの論文には眼を通しており、未熟児二〜三〇名、本症罹患者二〜三名位の眼底検査をした経験を有し、右患者のうち一名は、Ⅰ型の一期ないし二期で自然治癒し、一名は光凝固療法の施術にまで進んだものであつた。(三月一七日木村医師が第二回眼底検査を実施したことは、被告景岳会との間では争いがない。)
(七) 第三回眼底検査とその結果および古田医師の本症に関する診療経験の程度について
南大阪病院眼科嘱託医古田効男(昭和三六年三月大阪医科大学卒業、同三七年四月医師国家試験合格、その頃右大学眼科医局に入局し在籍のまま同四四年から四八年まで南大阪病院眼科に嘱託医として週二回診療を担当、同五〇年から同五一年中頃まで同病院眼科に同じく嘱託医として月一回診療を担当、同五一年一二月末右大学眼科医局を退職、同五二年一月枚方市民病院眼科部長となる)は、木村医師の前示依頼並びに平野医師の診療依頼票により、昭和五一年三月二四日南大阪病院において原告の眼底検査をした結果、耳側の部位、無血管領域は中等度に拡大し、境界線をみとめる、鼻側の部位は中間透光体がかすんでいるため血管新生は不明である、瞳孔は小さいとカルテに記載した。
同医師の所見は、原告の瞳孔はほぼ正円状で網膜剥離、虹彩後癒着にまでは至つて居らず、耳側の無血管帯はよく見えたが、鼻側は見えにくかつた。網膜には出血斑が見られ、境界線ははつきり見えたが、ヘイジイメディアが周辺部、赤道部に強く、網膜の血管新生の状態はよく分らないというものであつた。そして、原告は、未熟児網膜症に罹患しているが、これまで同医師が経験した症例と比べ、かなり程度の高いもので、Ⅰ型に罹患しているとして、これだけ強い中間透光体の混濁、ヘイジイメディア、散瞳不良、デイマーケーションラインが生じているのは病態が進行している証拠でⅠ型の二期の終りないし三期の初期であると判定した。そして、光凝固療法の適期は、Ⅰ型の場合、一般には二期から三期までの間であるが境界線が後極部寄りに進んでいる状態は、二期の進行中であり、光凝固療法を施す必要性があると考えていたから、原告の場合は、できるだけ早く光凝固か冷凍凝固の外科的治療を施さねばならないと判断した。同医師はこれまで本症罹患者二〇例位を診察し、光凝固の手術にまで進んだもの二例の経験を有していたが、自ら光凝固の手術を施行したことはなく、冷凍疑固の経験はなかつた。また南大阪病院では、本件発症まで、本症の発症例を経験したことはなく、同病院には光凝固等の手術を行う医療機械設備もなかつたので、速かに転医させることとし、自己の勤務する大阪医大は、南大阪病院から遠く、本症について詳しい渡辺医師も学会出席のため不在であり、永田誠医師の勤務先として有名な天理よろず相談所病院は、遠隔地にあり、いずれも不適当なので、北野病院で診断をうけさせようと考え、同年三月二四日午後四時過頃平野医師に対し、翌日一番に北野病院に連絡をとるよう伝え、「原告を御紹介する、在胎三四週生下時一、二〇〇グラム、昭和五一年二月八日生、初診同年三月一〇日、カルテによると血管の一部蛇行を認めたそうである。同月一七日(一週間後)かなり強い蛇行、怒張をみとめたということであるが、無血管領、境界線の記載はない。同月二四日(二週間後、本日)両眼に無血管領がみとめられる、なお、当南大阪病院へは現在一週に一回だけ入院患者だけの診察に大阪医大より来ているが、従つて眼科はない。御多用中恐縮であるが、地理的な関係もあるのでよろしくお願いする。」旨記載した宛書きなしの紹介状を作成し、眼科専属の看護婦に渡し、同行する小児科の医師と家族に持参させるよう指示した。ところが翌二五日北野病院から断られたとの連絡があつたので、古田医師は、改めて大阪市大外二つぐらいの病院を指示したところ大阪市大から翌二六日の診療の予約がとれたという連絡があつた。
これより先三月二四日、平野医師は、原告の母杉本和子に原告の眼が少し悪いので他の病院へ連れて行つてみてもらう旨伝え、更に、翌二五日の夕方、南大阪病院から、明日北野病院へ行くので南大阪病院まで来てほしいと連絡した。(三月二四日古田医師が原告の眼底検査をしたことは、被告景岳会との間では争いがない。)
(八) 市大病院における第一回眼底検査とその結果並びに阪本医師の本症に関する診療経験の程度について
昭和五一年三月二六日午前一〇時頃平野医師は、大阪市大眼科に宛てた「原告が在胎週数三四週、生下時体重一、二〇〇グラム、双胎の第二子、未熟児で、生下時より多呼吸、呻吟があり、酸素投与を行つている」ことなど記載した、同医師作成の紹介状および古田医師作成の前示紹介状を持参し、中山看護婦、原告、両親とともに、大阪市阿倍野区旭町一丁目五番七号市大病院眼科に赴き、原告の診断を求めたところ、同病院の阪本善晴医師(昭和二五年三月大阪市立医学専門学校卒業、同二六年五月医師国家試験合格、同二七年一二月大阪市立医科大学眼科助手、同三五年四月大阪市立大学医学部眼科講師、同四二年一〇月助教授兼眼科副部長、同五三年四月大阪市立城北市民病院眼科部長となる)から、まず平野医師が、一〇〜一五分位予診をうけ、四〇〜五〇分待たされた後、原告、平野、中山、杉本和子の四名が診察室に入り、阪本医師は、原告に散瞳剤ミドリンPを点眼したうえ原告を診察した結果、両眼共未熟児網膜症で、網膜血管の拡張、蛇行が著明、蒼白、瀰漫性混濁が認められる」とカルテに記載したが、平野医師に対しては、同医師を母親と勘違いしていたためか、とりたてて説明をせず、平野医師が、「まだ光凝固の治療法の適応かどうか難しい段階ですか、」と尋ねると、阪本は、「まあそういうことです」と答え、同年四月一日に次回の診察日を指定し、同日は、松山教授が診察する番であると述べた。そこで平野医師は、三月二四日の古田医師の所見と相違するため同医師の意見を求める目的も含めて即日電話で同医師に市大病院で阪本医師の診察をうけた結果、阪本医師の意見では、光凝固の適応かどうか難しい段階であるから一週間後に松山教授が診察することになつた旨報告したが、古田医師は別に意見を言わずそうですかと返事したのみであつた。
ところで阪本医師は、昭和四三年頃から本件当時までに、未熟児網膜症に罹患しもしくはその罹患の疑われる未熟児の眼底検査を約三〇例経験していたが、未熟児に光凝固の手術を施した経験はなく(成人に対しては右療法を行つたことがあつた)、当時大阪市大において未熟児に対し光凝固の手術をなしうる能力と経験を有するのは、後記松山道郎教授唯一人であり、前記のように古田医師が市大病院での診療を勧めたのは、松山教授の診療を仰ぐのが目的であつた(三月二六日阪本医師が、原告の眼底検査をしたことは、当事者間に争いがない。なお、被告大阪市は、阪本医師の眼底所見によれば、原告の両眼共散瞳不十分で、眼底周辺部より後極部に向い網膜は灰白色で前方硝子体腔に膨隆し、赤道部をこえて黄斑部にまで軽度の浮腫を認め、網膜は全剥離の様相を示しており、網膜血管の拡張、蛇行は著明であつたから、同医師は、本症の末期であると判断し、同日原告に付き添つてきた平野医師に症状が極めて重篤であり、光凝固法や冷凍凝固法等の外科的療法の適応でないことを説明したが、平野医師が納得できない様子であつたので、念のため天理よろず相談所病院で受診することを勧めたところ、平野医師は、右病院での受診が困難であるとの理由で市大病院での受診を希望し、一週間後の再診を予約した旨主張し、証人阪本善晴の証言中には同旨供述部分が存するけれども、証人平野明子の証言と比較し、更に阪本医師作成のカルテ(前示丙第一号証)には四本の血管が図示されているだけでその他の新生血管の走り具合いや、本症の症状診断に極めて重要な徴表であるデイマーケーションライン(境界線)、網膜剥離に関する記載がないこと、また前記のとおり原告の母親であると誤解していた平野医師に阪本証言の如く詳細な説明をしたかどうかは極めて疑わしいだけでなく、平野証言によれば、同医師は後記のとおり同年四月九日阪本医師を訪ねて三月二六日の症状について改めて説明を求めている事実が窺われるほかなお阪本証言によれば、同医師が三月二六日原告を診察後に市大病院診察室において作成したという南大阪病院に対する返書(前示乙第五号証の三、丙第二号証)にも「網膜血管は拡張および蛇行し(両側)、網膜周辺部は蒼白で瀰漫性に混濁(両側)、未熟児網膜症と考えます。」と記載されているだけで、網膜剥離等に関する記載が全然ないこと等の事実に照らして考えると、阪本証言中の前示供述部はたやすく措信し難くその他には認めるに足る証拠がないので、被告大阪市の前示主張は採用することができない。)
(九) 昭和五一年三月三一日木村医師による眼底検査とその結果
右同日木村医師は、南大阪病院において、原告の眼底検査を行い、無血管領域(〓)境界線(〓)(両側)あとの所見は、三月二四日の所見と同じであるとカルテに記載した(右事実は、被告景岳会との間では争いがない)。
(一〇) 市大病院における第二回眼底検査と、その結果並びに松山医師の本症に関する診療経験の程度について
昭和五一年四月一日、市大病院において松山道郎医師(昭和二三年九月京都大学医学部卒業、高知県立病院、高知日赤病院、倉敷中央病院を経て同四九年三月大阪市立大学医学部教授)は原告を診察し、カルテに「強度の虹彩後癒着のために瞳孔は不正円で散瞳は不充分である。末期症状の為処置なし。光凝固は、瞳孔の状態および眼底諸所見よりみて不可能である。両眼共に朦朧と透見し得る。乳頭は、強度にその境界が不鮮明で、それはその周囲網膜の浮腫性混濁が強い為である。網膜静脈は両眼共に強度に怒張蛇行し、且つ充盈しており一部ではコルク栓抜状に屈曲して認められる。網膜は、両眼共に全般に強く浮腫状に混濁し、且つ後極部に及ぶ泡状網膜剥離をきたしており、境界線が顕著である。右眼には出血斑も混在している。黄斑部はビマン性浮腫状に混濁している。」と記載し、原告の母杉本和子に、原告の末期、本件研究報告の四期にあつて治療が不可能であることなど症状並びに予後の点について口頭で説明した。
なお松山医師の専門は、眼科学ことに眼底網膜症患と眼科医療の病理学であり、同医師は未熟児数百名につき眼底検査をした経験を有し、光凝固の外科的手術も一〇〇例近く実施した経験がある。(四月一日松山医師が原告の眼底検査をしたことは、当事者間に争いがない)。
(一一) 昭和五一年四月二日北野病院における冷凍凝固の実施とその結果
南大阪病院では、更に北野病院の診療を求めることとし、同年四月一日同病院で原告を受診させた結果、現在の状態は良くはならないが、少しでも悪化を止めるため冷凍凝固の手術を行うこととし、翌二日同病院でこれを実施した。
同月七日木村医師は、南大阪病院で原告の眼底検査をし、カルテに硝子体混濁(〓)徹照法(眼底透見)不能(両側)、虹彩後癒着(?)(両側)と記載した。
同月八日、北野病院において、再度受診した結果、冷凍凝固法の手術によつても本症の症状は悪化していると診断され、同日再度手術を行つたが、改善の効果はみられなかつた(四月一日北野病院で診察をうけ、翌二日、冷凍凝固の手術をうけたこと、同月七日木村医師が原告の眼底検査をしたこと並びに同月八日北野病院において再度冷凍凝固の手術をうけた事実は、被告景岳会との間では争いがない)。
(一二) 昭和五一年四月九日平野医師の訪問
右同日平野医師は、市大病院に赴き阪本医師に面会を求め、原告の病状が急激に悪化した理由などを問いただしたところ同医師は、三月二六日は患者が多くて詳しい説明はできなかつたが、同日の段階で光凝固の手術は行えない状態であつたと説明した。
(一三) 昭和五一年四月一四日以後の状況
1 木村医師は同年四月一四日原告の眼底検査をし、カルテに網膜剥離(〓)(右眼)、硝子体混濁(〓)(両側)徹照法不能(左眼)瞳孔不正円形(両側)と記載した。
2 同月一五日北野病院で受診したところ、両側完全網膜剥離で治療方法なしと診断された。
3 同月二一日木村医師は、南大阪病院で原告を診察し、カルテに増殖性網膜症(両側)、瞳孔不正円形と記載した。
4 同月二二日、原告は胸部等には異常なく順調に体重が増加したので南大阪病院を退院した。
5 同月二八日古田医師は南大阪病院において原告を診察し、カルテに両側の眼とも網膜全剥離部分的に増殖性変化(〓)後水晶体線維増殖(〓)と記載した。
6 双生児の第一子杉本恵美子は、南大阪病院で木村医師から眼底に異常なしと診断されて同年四月一五日同病院を退院したが、原告の罹患により恵美子についても本症の罹患を危惧した両親は、同年五月一日天理よろず相談所病院へ原告と恵美子を連れて行き同病院の鶴岡祥彦医師の診断をうけた結果、原告のみならず恵美子も両眼共未熟児網膜症に罹患していると診断され、恵美子は、同年五月三日から同月一三日まで同病院へ入院し、同月四日両眼に光凝固の手術を実施した結果経過良好で本症が治癒し、その後何ら異常がない。他方原告については、もう少し早く来院すれば手術できたが、既に手遅れであると診断された。
以上のように認めることができ、証人平野明子、同木村嗣、同古田効男、同阪本善晴の各証言中右認定に反する部分は、前掲他の証拠と比較してたやすく措信し難く、他にはこれを覆えすに足る証拠は存しない。
二未熟児網膜症について
<証拠>によれば、次の事実が認められる。
(一) 本症は、昭和一五年前後から欧米先進諸国で発生し始めたが、同一七年アメリカの眼科医テリーが未熟児の水晶体後部に灰白色の膜状物を形成する失明例を報告したのが、本症の眼科文献に現われた最初のものであつて、同一九年Retrolental Filbroplasia(RTFO水晶体後部線維増殖症)と命令した。昭和二四年同国のオーエンスらは、本症が未熟児に主として起る後天性眼疾であり、瘢痕化前多彩な活動期病変があることを発見報告し、本症の全体的病像がほぼ明らかとなつた。
昭和二六年ヒースは、本症が、出生時体重二、〇〇〇グラム以下の未熟児に限つて発症することから、Retinopathy of prematurityと命名した。わが国では従来「水晶体後部線維増殖症」とか、「後水晶体線維症」などの名称で呼ばれたが、昭和四一年植村恭夫らが「未熟児網膜症」あるいは「未熟網膜症」の名称が適切であるとし、その後これが一般に用いられており、また本症は、その臨床経過より活動期、瘢痕期に分けられ、活動期はそれぞれの段階により第何期と呼称される。
本症は、西暦一九四〇年代の後半から一九五〇年代の前半にかけて、未熟児の保育に酸素を自由に使用していた時代に欧米先進諸国に多発し、乳児失明原因の第一位に挙げられ、ビタミンE欠乏説、ウイルス感染説など種々の原因が唱えられたが、当時わが国は、戦中戦後の混乱期にあつたため、そのような経験をすることなく、ようやく散発例の報告が文献に現われるようになつたのは、昭和三〇年以降のことである。
ところで、昭和二六年オーストラリヤのキャンベルは、本症の発症が、未熟児に対する酸素投与の過剰に原因して発生する事実を最初に指摘し、ついで同二七年アメリカのパッツは、始めて酸素療法のコントロールを主題とした臨床実験を行い、四〇パーセントの低酸素保育グループと六〇〜七〇パーセントの高酸素グループに分けた比較調査を行つて酸素との相関を確認し、同二九年酸素療法の期間が本症の発生頻度と重症度に関連することを明らかにした。(なお、この頃キンゼイらの共同報告は、一般に単胎児よりも多胎児の方が、RLFを起し易いという結果を公表している。)このため、酸素の使用は、きびしく制限されるようになり、本症の発生頻度は減少したが、昭和三五年アベリー、オッペンハイムらは、酸素を自由に使用していた時代と同二九年以後の酸素使用をきびしく制限した後の特発性呼吸窮迫症候群(Idio-pathic-respiratory dis tress syndrome IRDSと略す、未熟児の死因の第一位を占め、肺胞の拡張不全に伴う呼吸困難とチアノーゼを主徴とする疾患で、この患者は、四〇パーセントの酸素濃度でもチアノーゼが消失しないことがしばしばあり、深刻な低酸素症に陥つていることが明らかにされた。)の死亡率を比較検討した結果、後者に死亡率の増加したことを報告した。また本症の減少に反比例して脳性麻痺と強迫性両側麻痺の頻度、重症度の増加が明らかにされた。そのためIRDSには、高濃度の酸素投与が行われるように酸素療法の変革が起り、昭和四二年パッツは、これにより本症が再び増加する危険を指摘するとともに、動脈血(Po2, Pao2)の上昇が、本症の発症をもたらすことをも証明した。同年アメリカの国立失明予防協会主催の未熟児に対する酸素療法検討会議においては、酸素療法を受けた未熟児は、すべて眼科医が検査すべきことと未熟児は、生後三才まで定期的に眼の検査を受ける必要性が強調された。
(二) わが国では、欧米で本症による多数の視覚障害児の出現した時代には、前記事情から、未熟児保育施設は少く、循環式閉鎖式保育器は作られて居らず、酸素による保育技術も未発達であり、酸素療法の制限後に、未熟児保育が普及したため、本症の多発をみることなく、したがつて本症に対する関心もうすく若干の報告がみられたに止まつていた(小児科医、眼科医のほとんどは、本症は過去の疾患であり、酸素濃度は四〇パーセント以下に止めるべきものとされ、高濃度の酸素投与を行つていないわが国では、まず発症しないと考えていたという)が、昭和四〇年、国立小児病院の設立に伴い、植村らによる同病院の未熟児の症例の研究により、本症の発生とその増加傾向が報告され、眼科的管理の必要性が唱えられ、それに刺激されて、眼科領域では、永田誠、塚原勇、馬嶋昭生らにより続々と本症に関する研究が発表されたが、本症の発生原因については、未だに完全に解明されるに至つてはいない。ただ従来の文献によれば、本症は、発達途上の網膜血管に起る非特異性、血管性疾患であつて、網膜血管の未熟性を基盤とし、動脈血酸素分圧の上昇により発生するとされている。すなわち、網膜血管の発達は、他の諸器管に比し特異性があり、胎生四か月までは、網膜には血管がなく、網膜内層は、硝子体内の胎生硝子体血管により栄養されているが、胎生四か月に入ると、乳頭において、硝子体動脈より発生した間葉性細胞の前衛が、網膜内層に侵入し、内皮細胞性複合体は毛細血管となり、新生血管は、鋸歯状縁に向つてのびてゆく、こうして胎生八か月になると、網膜鼻側血管は、鋸歯状縁に達するが、耳側血管は、まだ達していない。酸素に対する感受性は、血管発達の初期程強く、六〜七か月では、網膜血管が全領域において感受性を示すが、八か月を過ぎると、耳側血管の末梢領域にのみ限局されてくる。したがつて、在胎週数の短いもの程、出生時体重の低いものほど、本症の発症率が高く、重症化し易いことが明らかにされており、また本症は、前記のとおり、酸素濃度と投与期間に関係があり、酸素濃度を四〇パーセントないしそれ以下の必要最小限とすることによつてその減少をみたことは、明らかであるが、乳児の個体的条件により、四〇パーセントの基準は必ずしも安全ではなく、二〇〜四〇パーセントにおいても発症することがあるとされている。
発達途上にある未熟血管は、酸素投与により収縮と閉塞性病変を来し、続発的に血管形成組織の増殖が起るとされ、第一段階で脈絡膜からの酸素供給により血管収縮の状態が続き、第二段階で脈絡膜からの酸素供給がなくなると、内皮増殖と硝子体内への血管の発達が始る、臨床的には、無血管帯が広ければ広い程、その部の低酸素、無酸素状態が強度、長期間続く程、病像進展につながり、内境界膜を通つて硝子体内への発芽につづき、網膜剥離が開始するとされている。昭和四三年永田は、光凝固法を本症の治療に応用して画期的な治療法を開発し、同四六年山下由紀子は、冷凍凝固法を本症の治療に応用した有効症例を報告し、その後それらの治療成績に関する論稿もつぎつぎと発表され、最近では、動脈内に留置する酸素電極や、経皮的にPao2を測定できる酸素電極が開発され、採血しないで連続的に血液酸素分圧の測定が可能となり、酸素療法に格段の進歩をもたらし、また眼科領域では、立体双眼倒像検眼鏡が発展普及し、倒像眼底撮影法、螢光眼底撮影法も行われるようになつた。しかし現在でも、光凝固等の医療機械が充分に普及してはいないし、肝心の治療を施す技倆と経験を有する医師も十分に確保されてはいないうえ、これらの熟練した医師によつても救済できない未熟児が跡を断たたないところから、未熟児の出生防止こそ本症に対する最も重要な根本的対策であるとして、産科における予防対策、成熟化促進療法などが唱えられるに至つている。
(三)(1) わが国では、昭和四九年慶応大学医学部眼科教授植村恭夫を主任研究者とし、関西医科大学眼科教授塚原勇、天理病院眼科部長永田誠、名古屋市立大学眼科教授馬嶋昭生外八名を分担研究者とする厚生省昭和四九年度特別研究補助金による研究班が発足し、翌五〇年「未熟児網膜症の診断ならびに治療基準に関する研究報告」(本件研究報告)を発表し、これが、本症の診断並びに治療に関する一般的基準と考えられており、証人木村嗣、同古田効男、同阪本善晴、同松山道郎の各証言によれば、右医師らは、本件における原告の診断、治療に際して、本件研究報告の存在、その内容等を熟知していた事実を認めることができ、これに反する証拠はなく、またその頃発表された馬嶋昭生の研究によれば本症の発症と深い関係にある未熟性の因子として、在胎期間と生下時体重が挙げられ、在胎二九週以下では、88.9パーセント、三〇〜三三週では、36.2パーセント、三四週以上九パーセントの各発症が認められ、生下時体重一、〇〇〇グラム以下では一〇〇パーセント、一、〇〇一〜一、二五〇グラムでは86.7パーセント、一、二五一〜一、五〇〇グラムでは六五パーセント、一、五〇一〜一、七五〇グラムでは38.4パーセント、一、七五一〜二、〇〇〇グラムでは16.4パーセントの各発症が認められたとしている。(なお、<証拠>によれば九嶋勝司は、「本邦における未熟児網膜症による視力障害児の頻度―推定」鈴木雅洲外一名監修九嶋勝司編集未熟(児)網膜症のすべて所収一二三頁以下において、わが国における未熟児網膜症の発生件数は、近時年間二万三、〇〇〇名位にのぼると推定され、また名古屋市立医科大学のデータによれば、本症罹患者中生下時体重一、〇〇一〜一、二五〇グラムでは、69.2パーセント、一、二五一〜一五〇〇グラムでは、26.9パーセントの乳児が本症活動期三期以上に進行したとし、他の調査によれば、活動期三期では五五パーセントに瘢痕期変化を残し、11.4パーセントに瘢痕期三度以上(盲)、6.1パーセントに瘢痕期二度(弱視)の変化をもたらしたとしている。本件研究報告は、これらの数値から本症の発症のみならず、重症度も出生時体重と関係があることを否定できないという。)
(2) 本件研究報告によれば、本症の診断並びに治療基準は次のとおりである。
(イ) 本症は、臨床経過、予後の点よりⅠ型、Ⅱ型に大別され、Ⅰ型は、主として、耳側周辺に増殖性変化を起し、(鼻側と比べると耳側領域は血管発達が遅れるため、本症の病変は、耳側網膜に出現するという)、検眼鏡的に、血管新生、境界線形成、硝子体内滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離へと段階的に進行する比較的緩除な経過をとるものであり、自然治癒傾向の強い型であるのに対し、Ⅱ型は、主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極寄りに耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、ヘイジイのために無血管帯が不明瞭なことも多く後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられ、Ⅰ型と異り段階的な進行経過をとることが少く、強い滲出傾向を伴い比較的速い経過で網膜剥離を起すことが多く、自然治癒傾向の少い予後不良の型であるとされる。
(ロ) Ⅰ型の臨床経過分類は、次のとおりである。
一期(血管新生期)においては、周辺ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、周辺部は無血管帯領域で蒼白である。後極部には変化がないか軽度の血管の迂曲怒張を認める。
二期(境界線形成期)には周辺ことに耳側周辺部に血管新生領域と周辺の無血管領域の境界部に境界線が明瞭に認められ、後極部には血管の迂曲怒張を認める。
三期(硝子体内滲出、増殖期)では、硝子体内への滲出と血管、支持組織の増殖が検眼鏡的に認められ、後極部の血管の迂曲怒張を認め、硝子体出血を認めることもある。(なお三期については、これを前期、中期、後期に分ける見解があり、それによると前期は、極く僅かな硝子体内への滲出、発芽を検眼鏡的に認めた時期であり、中期とは、明らかな硝子体内への滲出、増殖性変化を認めた時期をいい、後期とは、滲出性限局性剥離の時期とするものである。しかし一方この時期は、期間が長く、一部には活動性を示す部位と他では既に瘢痕化を起している部位が混在していて、三期の後期と四期の初期との区別は難しいという意見がある。)
四期(網膜剥離期)は、明らかな牽引性網膜剥離が認められ、耳側の限局性剥離から全周剥離までが認められる。
(ハ) Ⅱ型の臨床経過分類は、次のとおりである。
これは主として極小低出生体重児に発症し、未熟性の強い眼に起り、初発症状は、血管新生が後極寄りに起り、耳側のみならず鼻側にもみられることがあり、無血管領域は広く、その領域は、ヘイジイメディアでかくされていることが多い。後極部の血管の迂曲怒張も著明となり、滲出性変化も強く起り、Ⅰ型のような段階的経過をとることも少く比較的急速に網膜剥離へと進む。
なお、以上の外に、Ⅰ型、Ⅱ型の混合型もあると考えられている。
(ニ) 本症の治療には、未解決の問題点が残されてはいるものの、光凝固あるいは冷凍凝固を適切に行うと治癒しうることが多くの研究者の経験から認められている。しかし右の二つの型における治療の適応方針には大差があるとされている。
まず、治療の適応については、Ⅰ型においては、その臨床経過が、比較的緩徐で、発症より段階的に進行する状態を検眼鏡的に追跡確認する時間的余裕があり、自然治癒傾向を示さない少数の重症例のみに選択的に治療を施行すべきであるが、Ⅱ型においては、極小低出生体重児という全身条件に加えて網膜症が異常な速度で進行する為めに治療の適期判定や治療の施行に困難を伴うことが多い。したがつて、Ⅰ型では治療の不要な症例に行き過ぎた治療を施さないよう慎重な配慮が必要であり、Ⅱ型においては、失明を防ぐ為めに治療時期を失わぬよう適切迅速な対策が望まれている。
次に治療時期についてⅠ型では自然治癒傾向が強く二期までの病期中に治癒すると、将来の視力に影響がないので二期までの病期のものに治療を行う必要はない。三期において更に進行の徴候が見られる時に初めて治療が問題となる。
ところがⅡ型では、血管新生期から突然網膜剥離を起してくることが多いので、Ⅰ型のように進行段階を確認しようとすると、治療時期を失うおそれがあり、治療の決断を早期に下さなければならない。この型は、極小低出生体重児で未熟性の強い眼に起るので、このような条件を備えた例では、綿密な眼底検査を可及的早期より行うことが望ましく、無血管領域が広く全周に及ぶ症例で血管新生と滲出性変化が起り始め後極部血管の迂曲怒張が増強する徴候が見えた場合は、直ちに治療を行うべきであるとされている。
治療方法について、光凝固は、Ⅰ型では、無血管帯と血管帯との境界領域を重点的に凝固し、後極部附近は凝固すべきではない。Ⅱ型においては、無血管領域にも広く散発凝固を加えるが、この際後極部の保全に十分な注意が必要である。
冷凍凝固も凝固部位は、光凝固に準ずるが倒像検眼鏡で氷球の発生状況を確認しつつ行う必要がある。
初回の治療後症状の軽快が見られない場合は、治療を繰返すこともあり、又全身状態によつては数回に分割して治療することもある。混合型では、治療の適応、時期、方法をⅡ型に準じて行うことが多い。
(ホ) 最後に、瘢痕期の程度分類について、本件研究報告は、次の四段階説を採用している。
一度=眼底後極部には著変がなく、周辺部に軽度の瘢痕性変化のみられるもので、視力は、正常のものが大部分である。
二度=牽引乳頭を示すもので、網膜血管の耳側への牽引、黄斑部外方偏位、色素沈着、周辺部の不透明な白色組織塊などの所見を示す、黄斑部が健全な場合は、視力は良好であるが、黄斑部に病変が及んでいる場合は、種々の程度の視力障害を示すが、日常生活は視覚を利用して行うことが可能である。
三度=網膜襞形成を示すもので、鎌状剥離に類似し、隆起した網膜と器質化した硝子体膜が癒合し、これに血管がとりこまれ、襞を形成し、周辺に向つて走り、周辺部の白色組織塊につながる。視力は〇、一以下で弱視または盲教育の対象となる。
四度=水晶体後部に白色の組織塊として瞳孔領よりみられるもので、視力障害は最も高度であり、盲教育の対象となる。
三原告の失明と責任の所在
(一) 本症の罹患と酸素投与との関係について
前記認定事実によれば、原告は、その網膜の未熟性を素因とし、南大阪病院における酸素投与を原因として、本症に罹患したものであり、その進行によつて網膜剥離を来し、失明に至つたと推認することができ、これに反する証拠は存しない。
原告は、酸素を投与する場合には、未熟児の一般状態に照らし、最少限に止めるものとし、流量計のみならず濃度計により直接その濃度を把握すべき酸素管理義務があるのに、南大阪病院では、原告に大量の酸素を投与しながら、酸素濃度測定を行わず、漫然と酸素を投与し、適切な酸素管理義務を怠つたと主張する。
しかしながら、本件の全証拠を精査検討しても、南大阪病院が適切な酸素管理義務を怠り、その結果原告が未熟児網膜症に罹患したものと認めるに足らないのであり、却つて、証人平野明子の<証拠>によれば、原告の担当医であつた平野は、若年で、未熟児網膜症に関し、専門的に研究したことのない、経験の浅い医師ではあつたが、昭和五〇年頃担当の未熟児の中に、本症に罹患し、眼科医の指示により関西医科大学において、光凝固の治療を施し、好結果を得た経験を有しており、原告に対する酸素投与に際しては、保育器内の酸素濃度を前示酸素濃度計によつて測定し、また前示酸素流量計によつて酸素流量の調節をしていたこと、その測定並びに調節の結果は、前記被告景岳会主張のとおりであることが認められ、前記認定事実によれば、平野医師は、原告に対する酸素投与をおおむね二八ないし三四パーセント台の低濃度に保ち、当時において未熟児網膜症の発症の危険ラインとされていた四〇パーセントを超えない範囲の酸素濃度を保ち、急激な酸素濃度の動揺を避け、原告の全身状態の変化に即応し、酸素投与の中止を徐々に行い、適時適切な処置をなしていたと認められるから、原告主張のような動脈血Po2採血による血液ガス分析あるいは経皮的酸素分圧測定器(南大阪病院には備付けられていなかつた)による児血中酸素濃度を四〇〜九〇mmHgに保つように測定をしなかつたとしても、平野医師の酸素投与は、当時におけるわが国の医療水準と南大阪病院の医療設備、規模および程度に照らし、小児科医としての平均的裁量の範囲内にあつたものというべく、原告の罹患の原因が、同医師の酸素投与によるものであることは、疑いがないにも拘らず、同医師に未熟児の保育医療に関する原則に背馳した過失があつたとして、社会的非難を加えることはできない。
もつとも、永田誠「未熟児網膜症の治療経過(光凝固)」前掲未熟(児)網膜症のすべて所収一三一頁によれば「欧米先進国でも本症による失明の問題は決して完全に解決されたわけではなく、一九六〇年代終り頃から再び失明例が徐々に増加しているという。未熟児の眼科的管理を動脈血Po2を定期的にモニターし、大多数の未熟児でPo2レベルを六〇〜九〇mmHgに保つという理想に近い血中酸素濃度の管理が行える施設では、本症による失明は、ほとんど例外的であるが、環境酸素濃度四〇パーセント以下に保たれたもののPo2測定はほとんど行われていない施設では、本症による失明例を出していると報告されている。このような環境で極小低出生体重児の保育を行えば、未熟児網膜症のある程度の発生は避けえないし、放置すれば、失明児が発生する可能性がある。」というのであり、右論文によれば、未熟児に対し、動脈血測定装置による眼科的管理を行うことが理想的であるというのであるが、本件発生当時において、右装置を欠くことが適正な診療体制でなかつたとして非難すべき程度に、右装置が普及していた事実の主張立証の存しない本件では、南大阪病院に右装置の備付けがなく、これによる検査がされなかつた故をもつて、同病院または平野医師の過失とすることはできない。
むしろ、森実秀子「未熟児網膜症による視覚障害児の頻度―眼科側からみた―」前掲未熟(児)網膜症のすべて所収一二〇頁によれば「未熟児網膜症の発生は、一定の恒常性をもつて認められ、保育技術の進歩とは無関係に存在する。低出生体重児ほど高率に発生し、未熟性を基盤とする病態であることが実証される。」としており、国立小児病院における本症発生率が、出生時体重一、一〇一〜一、二〇〇グラムでは58.3パーセント、一、二〇一〜一、三〇〇グラムでも47.8パーセントであることに照らして考えると、本症罹患をもつて直ちに担当医師の過失を推定し難いことはもとより、その看護措置に顕著な失態の認め難い本件においては、本症罹患に関しては、過失(発症責任)の不存在を認定するのが相当であるといわなければならない。
(二) 原告の病状とこれに対する眼科的管理の不備について
(1) 医師は、医師国家試験に合格し、厚生大臣の免許を受けたものが、医療および保健指導を掌ることによつて公衆衛生の向上および増進に寄与し、もつて国民の健康な生活を確保することを任務とし、人の生命および健康を管理する業務に従事するものであるから、その職業の性格上患者の診察、治療にあたつては、当時の医療水準に従い適確に患者の症状を把握し、治療を施すことにより患者の生命、身体に対する危険を除去ないし予防する高度の注意義務を負うものであり、右注意義務を尽して診療行為を行なうことが医療契約の債務内容をなすというべきである。
とりわけ未熟児を診療する医師は、患者本人からの愁訴を欠くうえ抵抗力が弱く症状の急変をみやすいものであるから、綿密な諸検査、診察を行つて客観的症状の把握に努め、何らかの異状が認められた場合には、未熟児の生命および身体に対する危険の発生を予想して、更に頻回検査、診察を行い特定の疾病との結びつきの有無を早期に発見、鑑別して、早期に適切な治療を施し、右危険の除去、予防に努めるべきである。
また、医師は、依頼をうけた患者に対しては、まず自己の知識、経験、技術に基づき、専門分野における医療水準に従つた診察行為を自らなすべきであるけれども、近時医療水準が飛躍的に向上している一方で、それに伴ない事実上各医師の専門領域が細分化され、かつ、診察、治療に要する器具、施設、技術が高度化したため、生命および身体に重大な結果(生命の危険、重大な後遺症等)を生ずる可能性のある疾病を診断するか、あるいはその疑いを抱いたが、当該医師(または、当該医師の属する医療機関)が自己の知識・臨床経験ないし右医療機関の医療設備によつては直ちに確定診断を下したうえ治療行為を施すことが困難な場合においては、その医師としては、他の医師との協議、文献の調査等によつて対応措置を施すだけでなく、患者の一般状態、地理的条件等に格別の支障のないかぎり、診断または疑診断した疾病について、他の熟練した専門医ないし高度の検査、治療施設を備えた他の医療機関へ、自己のなした診療経過を詳細に報告、説明したうえ遅滞なく診療を依頼する等して患者の回復しがたい重大な結果発生の避止のため最善の措置を講ずる義務があるものと言わなければならない。
(2) ところで、<証拠>によれば、当時、未熟児に対する定期的眼底検査は、本症の活動期の初発病変を捉えて、その経過を連続的に観察し、ヘイジイメディアの存在とその持続期間、未熟眼底と成熟眼底との鑑別、本症活動性病変の早期発見とⅠ型、Ⅱ型の判定等を行ない、これに基づいて治療方針を決定し、光凝固、冷凍凝固療法施行後においては予後合併症の追究をすること等を目的とするものであつて、未熟児の眼底の未熟度の判定および、本症発見のためには、生後できるだけ早期に、遅くとも三週以降眼底検査を開始し、本症の早期発見と進行の監視を行い、進行重症例への最も適切な病期における光凝固ないし冷凍凝固による治療を施すのが、実際的な対策であるとされていたのであり、定期的眼底検査の頻度については、本件研究報告は、生後満三週以降一週一回、三か月以降は、隔週または一か月に一回、六か月まで行い、発症を認めたときは、必要に応じ、隔日または毎日眼底検査を施行し、その経過を観察し、瘢痕を残したものについて、殊に一〜三度のものは、晩期合併症を考慮して長期にわたるフォローアップをすることが必要であるとしている。
(3) 本件について検討するに、前記認定事実並びに木村、古田各証人の証言によれば、木村医師は、生後三二日目である昭和五一年三月一〇日平野医師の依頼により原告を診察したものであるところ、右診療依頼票には、原告が在胎週数三四週生下時体重一、二〇〇グラムの未熟児であり、無呼吸発作を生じ、酸素療法を行つている旨記載されており、かつ同日の眼底検査において網膜は透見できるものの、網膜血管は両側蛇行して左眼には極めて小さい出血らしきものを認め、同医師自体本症の発症頻度の高いことを予想していたというのであるから、この段階において原告に対する本症の発症を判断すべきであつたというべく、更に同月一七日の眼底検査においては、網膜血管は非常に強く蛇行拡張し、全体にオレンジ色を呈し、一部は透見できたものの他はヘイジイメディアのため透見できない状態で、左眼には大きな出血すらあつたというのであるから、右疾患の高度の進行により、頻回検査を実施するだけでなく、このまま進行を続ける場合は、手術実施の適否をも考案すべき段階に達していたものといわなければならない。
しかるに木村医師は、本件双生児の第一子杉本恵美子の眼底検査をなした結果異常なしと診断したが、実際には本症に罹患しており、天理よろず相談所病院において光凝固の手術を行わざるを得なかつたものであるが、原告についてもこれと同様の未熟な診断をなしたものである。そもそも未熟児の眼底検査は、技術的に難しく、熟練を要するのであつて、本症の診断については、多数の症例経験を経てこそ病態の把握、判断が可能であるのに、同医師はこれまで本症罹患者二〜三名位の眼底検査をした経験がある程度の経験の浅い医師であつて本症のような重大な後遺症の可能性があり、かつ診断、治療がむつかしい疾患に対しては、慎重に対処し少しでも自己の経験、知識に照らして不審不明な点があれば、即刻経験豊かな他の専門医の診察を仰ぎ、時機を失せず適切な治療を施し、危険の発生を未然に防止すべき注意義務があるのにこれを怠り、自分でもおかしいとは感じながら、自ら十分に本症の病態把握ができないためかカルテに右病変の詳細を記載せず、頻回検査の必要性にも気付かず、次回来週と記載して、古田医師の診察を求めたに過ぎないことは、前記認定のとおりであつて、本症のように適時、適確な眼底検査によつて病態を把握することが診断治療にとつて必要不可欠な疾患についてこのような木村医師の原告に対する不適切な処置は、後に手術の実施を遅らせる原因の一つになつたものということもできるのであつて、前示医師の注意義務に反する過失があつたといわなければならない。
(4) 更に古田医師は、木村医師から原告の診察の依頼をうけ、同年三月二四日原告を診察した結果原告が可成りの重症であつて、即刻手術の必要性があることを認めながら、医師国家試験合格後二年にも満たない経験の浅い小児科医師である平野医師に緊急の眼科的措置が必要な重症患者の取扱いをゆだね、大阪市大における診療についても、同大学に原告を赴かせたのは、松山教授の診断を受けさせるのが目的であつたのであるから、首尾良く松山教授の診察が受けられるように適切な指示をすべきはもとより、原告の病状からみて、できるだけ早期診察をうけられるよう取計らうべきであつたのに、何らなすことなく、そのため診察指定日が二日後の同月二六日になつたうえ、平野医師を原告に付添わせただけで、自己は同行しなかつたばかりか、本件のように緊急措置が必要であり、かつその診断治療に当つては症状経過の把握が重要な疾患の場合には、それに代るべき紹介状に自己の所見および木村医師の所見を併記し原告の眼の境界線の状況など重要な症状は残らず記載して、転医の事情を説明すべきであつたのに、前示木村医師の作成にかかる不十分なカルテの記載を丸写しにしただけの不完全なものを携帯させたに止まり、詳しい病状を摘記した紹介状を添えると失礼に当るなど全く不合理な理由により大阪市大における診察の参考となりうるような有用な所見を伝えなかつたのであつて、このため、大阪市大においては、前記目的に反し、当時同大学に在つて原告の診断が可能であつた松山教授の診察がうけられず予定外の阪本医師の診察をうけることとなつたのみならず、同医師の不完全な診断により手術の適期を逸し、原告の失明をもたらすこととなつたのであつて、その後においても古田医師は、自己の所見と異り、原告に対し光凝固の手術が不適応であるなどの阪本医師の不審な診断結果の報告に接しながら、単に手をこまぬいていただけで、自ら再検査しまたは市大に問い合わせる等の適切な善後策を講ずることなく、医師として誠実に患者の治療を指導すべき義務を尽さなかつた過失があつたといわなければならない。
(5) 前記認定事実によれば、昭和五一年三月二六日市大病院において阪本医師は、原告を診察した結果、原告が既に重度の未熟児網膜症に罹患しており、光凝固等の外科的処置を必要とする段階に達していたにも拘らず、これに気付かず、同行の平野医師に対しては、光凝固の適応かどうか難しい段階であるとして、あいまいな診断を示し、不注意にも一週間後の再検査を指示したものであるところ、このように他の病院から医師が同行して患者が転送されたような場合においては、転送をうけた医師としては、とりわけ重大な結果を生じるおそれのある疾病について紹介状の記載だけでは従来の症状や診療の経過が十分把握できないため診断しにくい場合には依頼してきた医師に問い合わせて経過を確認するなどして転送の理由ないし事情を正確に把握すべきはもとより、自己の知識経験によつては、転送された患者の病態の実相を理解することができず直ちに結論を下し難いような複雑な疾患の場合には、即刻経験豊かな他の専門医の診療を求めるなど医師として誠実に患者に対応すべき注意義務、殊に大学病院に診療を依頼するのは、最高水準の医療施設機械による診断治療のみならず、最高水準の知識、経験、技術を有する専門医が多数所属している関係上右専門医間の協議・総合検討による診療をも求めているものといわねばならないから、このような診療方法によるべき業務上の注意義務があつたのにかかわらず、阪本医師はこれを怠り、当時同大学には本症につき多年の豊富な経験を有し外科的手術においても熟達した医師である松山道郎教授が在職し、かつ同年三月二四日の診察日には市大病院に在院しており、原告の診察が可能な状態であつたのに、同教授に連絡して、その診療を求めなかつたため、直ちに診察を求めそれにより同教授の適切な治療が施されておれば前記認定にかかる原告の病状からみて本症による失明を免れ得たと推断しうるのに拘らずその期を逸したのであり、このような阪本医師の診察の態度、その後の処置並びに前示不作為は、医師としての注意義務に反する重大な過失があつたものというべく、前記木村、古田並びに阪本医師の各過失の競合により原告に対する手術の適期を失しその後における北野病院での冷凍凝固手術の施行も甲斐なく、遂に原告の失明をもたらしたものと認めるのが相当である。
(三) 被告らの責任
被告景岳会は、木村、古田両医師の使用者であり、被告大阪市は、市大病院の設置経営をなし、阪本医師の使用者であることは、当事者間に争いがないので、被告らは右医師の前記義務違反により、原告に与えた損害について民法七一五条に基く使用者責任を負うのはもとより、原告と被告景岳会との間に締結された診療契約および被告景岳会を介して前示転医により原告と被告大阪市との間に締結されたと認むべき診療契約の各不完全履行(債務不履行)の責任をも負うべきであつて、右損害を賠償すべき義務を有する。
四損害額について
原告は、前記のとおり本症による両眼失明のため、今後の長い一生を暗黒の中で過ごさねばならず、社会生活はもとより、家庭における日常生活においても決定的制約を受けることを考えると、その精神的肉体的苦痛が極めて大きいことはあえて詳説するまでもあるまい。
ところで本件の損害額の算定にあたつては、本症が生後間もない未熟児に発生するもので、本症の発症はその未熟性そのものに主因があるところ、原告が生下時体重一、二〇〇グラムのいわゆる極小未熟児として出生し、このクラスの未熟児における本症発生率(のみならず重度視力障害児の発生頻度も)が極めて高いことは前記のとおりであつて、前示各医師が本判決の指摘する注意義務を完全に履行したと仮定して治療が奏効し、失明を免れ得たとしても、瘢痕期病変の程度が果してどの位までで止まり得たかは予測困難であること等、不確定要素の多い本件の諸事情に照らすと視力回復を前提とする原告の経済的損失を独立して算定することは困難であるので、これを精神的損害を填補する慰藉料を算定する際の一要素として考慮することとし、したがつて右趣旨による慰藉料および弁護士費用を本件の損害として認容するのが相当である。
そして右慰藉料額を算定するためには、経済的損失を含めた趣旨での原告の精神的肉体的苦痛の大きさだけでなく、被告らの使用人(履行補助者)である各医師の注意義務違反の軽重、本症発生の要因、治療効果等諸般の事情を考慮しなくてはならないところ、本件においては、原告とともに出生した双生児の第一子恵美子は、生下時体重一、四〇〇グラムで原告より二〇〇グラム重かつたとはいえ、本症罹患後の適切な治療により、現在視覚障害を免れ得た状態にあるのに対し、原告は二〇〇グラムの差があつたにせよ恵美子と時を同じくして生を受けたにもかかわらず両眼失明の悲境にあり、その網膜等の状態からして今後再び視力を回復する可能性も望めず、収入の道もきわめて限られ、また一生にわたり介護者を必要とする等、極めて不幸な境遇にあること、しかし、前記のとおり、本症の発症原因がしだいに解明されるにつれてその治療方法も発展してはいるものの未だ不明部分も多く、本件当時においても依然診断治療の難しい疾病であつたこと、にもかかわらず被告景岳会では、総合病院として未熟児哺育を行いながら、その実態は経験の浅い医師と主治医とし、またいわゆるアルバイト医師の診察にたよる態勢をとつており、本症のように熟練医による継続的診療が必要な疾病に対する対応がきわめて不十分であり、被告らの使用人で履行補助者である医師間の連絡、協同診療態勢が不備であつたこと、しかし、本件において、前記各医師には、眼底検査の方法、転医措置について判示のとおりの注意義務違反が認められるものの、前記診療体制の中で、原告の診療にあたり各医師個人としてはある程度の配慮と努力をしていること等の本件証拠に顕われた一切の事情を斟酌すると、被告らが原告に対し連帯して賠償すべき慰藉料額は金二五〇〇万円を相当とし、本件事案の内容、訴訟の経過、認容額その他の事情を参酌すると、原告に賠償すべき弁護士費用の額は、金二五〇万円をもつて相当と認める。
五結語
よつて原告の本訴請求中、被告らに対し連帯して金二七五〇万円と内金二五〇〇万円に対する不法行為もしくは債務不履行後と認むべき南大阪病院の退院の日の翌日である昭和五一年四月二三日以降完済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で、正当として認容し、その余は失当として棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条、仮執行の宣言およびその免脱宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(仲江利政 前川豪志 小池裕)